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2015年01月21日

ありのままの自分を赦すことをめざして



佐々木俊尚氏の『自分でつくるセーフティネット(以下、資料)』をベースに、
「みんなが社会起業家」を考え直すシリーズ。



今回は「自分の中途半端な立ち位置を知る」について、
考えてみたいと思います。


○自分がピュアであることを主張するのは、
最強の立場だけど、自己満以外に何の意味もない



まず、資料の以下の文をお読み下さい。

自分がピュアであることを主張し、
どこかにいる強い悪を非難していれば、
誰かから非難され返すことは
絶対にありませんよ、そりゃ。

最強の立場です。
でも同時に、それはとてもずるいんじゃないかと
思うんですよね。


以前佐々木氏が批判していた「マイノリティ憑依」は、

「自分はマイノリティを代弁してるんだ」という立場から、
「自分がピュアであることを主張」してるわけです。

確かに、それは最強の立場ですね。

厳密にいえば、非難され返すことはあるんですが、
それに反論するのではなく、
ただただ、自分がピュアであることを
主張してるだけなので、
ある種、道徳的には最強の立場に立てる。

そして、それはとてもずるいというという、
佐々木の主張に同意します。

個人的に、それに補足するならば、
それは「自己満以外には何の意味のない」

まぁ、「自己満で何が悪い」というのは、
他者危害則にのっとっている限りは、
そうかもしれません。
(たいてい、他者危害則にすらのっとってないですが)

ただ、NPOとかがこの立場に立ってしまうのは、
 許されないのではないかと思うのです。

「ならず者を訴える」のが
NPOの華になりがちなので、
マイノリティ憑依になりやすいのですが。


○NPOレベルの「自分が中途半端な立ち位置」とは
ニーズから逃げずに活動する姿勢



じゃあ、どうしたらいいのか?

ピュアな立ち位置を捨てて
現世に舞い戻って、
自分の本来の居場所を
取り戻していく必要があると思うんです。

そこで、汚れも何もかも、
そういう現実を引き受けていく
覚悟みたいなものが
必要だと思うんですよね。


いまの時代、
自分が中途半端な立ち位置であることを自覚し、
善人にもなれないし偽悪者でもないと自覚し、
善い人を目指して生きていくという立ち位置は、

死後の世界の往生でもなく、
倫理や道徳でもなく、
まさに必要な生存戦略だと思うんですよね。


なんか、これだと、
かなり抽象的というか、
ふわふわしているので、ピンとこない人も、
多いのではないでしょうか?

NPOレベルの生存戦略として、
個人的に解釈すると、

 「ニーズから逃げない」

ということになるのではないか。

自分が、ピュアな立ち位置に立つことが目的ではなく、
 あくまで、現場の社会課題の解決という、
 社会的弱者のニーズから逃げない。

そのためには、汚れごとであっても、
積極的に引き受けなくてはならないこともある。
ある種の妥協も、必要になるかもしれない。

そのうえで、はじめて、
本当の意味での「自分の居場所」が、
見いだせるのではないか。

とはいえ、自分たちだけで、
 ニーズを引き受けることなんて、できやしない。

自分たちの活動で、
社会課題の解決に近づくこともあれば、
逆に、実は社会課題の解決を
遠ざけてしまっているかもしれない。

自分たちのやっていることは、
非常に中途半端。

自分たちのやっていることは、
時には善事かもしれないし、
時には悪事かもしれない。

それを受け入れた上で、
より善い活動を目指して、
時には他の団体、行政、企業等と協働し、
中途半端さを、少しでもよい方向に持っていく。


○「ありのままの自分」を受け入れ、赦す


「自分が中途半端な立ち位置であることを自覚」

これを、NPOレベルの生存戦略ではなく、
個人レベルの生存戦略とした場合、

(1)「ありのままの自分」を受け入れ、赦す
(2)その土台の上で「見知らぬ他人を信頼する」
   「弱いつながり」「善い人」を目指す

ということではないかと思うのです。
これも、まだふわふわした文章ですね。

「ありのままの姿見せるのよ〜」とか、
どっかで聞いた歌が流れてきそうですね。

(この程度の引用であれば、
JASRACとかに指摘されたりしないですよね?)

ただ、「ありのままの自分」を受け入れ、赦す。
これは、ホントに難しい!

ちょっと話は脱線しますが、
2015年の中国新聞年頭社説では、
実はメインテーマは「他者の傷み分かち合う」

http://www.psonic.org/wordpress/wp-content/uploads/Chugoku2015.pdf

「他者の痛みに鈍感になっていないか」と、
問題提起をしています。

よくありがちな問題提起ですが、
私は、もう少し別の観点で、
同様の問題提起をしたいと思います。

それは、

「自分の痛みに敏感になりすぎていないか」

この問題提起の背景にあるのは…

(1)そもそも、自分の痛みはほぼ「他者」がもたらす
(2)自分の痛みに鈍感になる(自分を赦す)
ことができないと、
   他者を受け入れられない

この手の「心の痛み」の場合、
原因は、ほぼ他者というか、
人間関係に起因することが多い。

アドラーなんかは、

「すべての悩みは対人関係の悩みである」

なんて言い切っちゃってますしね。

別に、目の前に実際の他者がいなくても、
ネットを見てても、そこに他者を投影して、
共感したり、癒されたり、
そして、痛みを感じたりする。

中国新聞では、ヘイトスピーチを、

他者を否定することで、
うさを晴らすという狭苦しい了見


と指摘していますが、
個人的には、
そんなレベルではないと思う。

ヘイトスピーチする人は、
 そうでもしないと、
 自分の痛みに耐えられない。

○○がこの世からいなくなれば、
この激痛から解放されるというのであれば、
そりゃ、ヘイトスピーチに走るでしょう。

その痛みとは、具体的には、
その人にとっての正義感に起因したり、
自己肯定感に起因したり、
そういった要素があるのでしょう。

自分の痛みは、他者がもたらす以上、
他者を否定するのではなく、
(人間関係の拒絶やヘイトスピーチ)

他者と関わって生きるためには、
 どこかで、自分の痛みに
 鈍感にならないといけない。

そのためには、どこかで、
自分を赦さないといけない。
やっぱり、これが、非常に難しい。

ま、だからこそ、
今アドラー心理学が、
ウケてるんでしょうかねぇ?


……脱線終了。

ま、自分の痛みは
ほぼ「他者」がもたらす以上、

自分の痛みに鈍感にならないと、
その激痛から解放されようとして、
ひたすら他者を攻撃する。

この土台で、資料の以下の文章を見ると、
ピンときやすくなるのでは?

その覚悟によって、
人々のさまざまな生き方も
許容できるようになって、
見知らぬ他人でも「まず信頼からはじめよう」と
思えるようになって、

そして成熟して
大人になっていくことが
できるんじゃないかと思いますよ。



○具体的に自分を赦せなくても、
痛みを引き受ける覚悟を



「じゃあ、具体的に、
ありのままの自分を赦すには、
どうしたらいいんですか?」

わかりません。

資料にも、そんなことは書いてません。
佐々木氏だって、わからないと思います。

「ありのままの自分を赦す」とは、
どういうことなのかについては、
宗教とかに触れると、わかるのかもしれませんが、

最終的に、「じゃあ赦せるか否か」は、
自分次第なので。

Aさんがありのままの
自分を赦せるようになったとして、

Aさんがそこに至るプロセスは、
たぶん、アナタには、ほとんど参考にならない。

何より、私自身、
ありのままの自分を赦せているかといえば、
全然そんなことはない。

ただ、資料にも書かれていることですが、
そのヒントは、「年齢」に
あるのではないでしょうか。

年をくって、いろんな経験をすれば、
自分や他者のいろんなものが見えてくる。

ま、赦せなくても、
「そんなもんかな」「どうでもいいかな」くらいには、
思えるようになるでしょう。


…う〜ん。この流れでいくと、

年をとらないと、
自分でつくるセーフティネットとか、
みんなが社会起業家とか、
そうしたことができにくい、という結論になっちゃうなぁ。

理想的には、ありのままの自分を赦して、
その土台の上で、

ありのままの自分ができることで、
 「善い人」として、
 見知らぬ他人との弱いつながりを築ければベスト。

ま、たとえ自分を赦せなくても、
自分のスキルとかが明確になっていれば、
それを土台にして、
見知らぬ他人との弱いつながりを築くことも、
できなくはないでしょう。

ただ、それはやっぱり、

他人からもたらされる「痛み」に、
耐える覚悟がいるのでしょうね。




※この記事は、P-SONICのHP記事より転載しております。
http://www.psonic.org
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2015年01月06日

他者への「寛容さ」を持つ難しさ



佐々木俊尚氏の『自分でつくるセーフティネット』をベースに、
「みんなが社会起業家」を考え直すシリーズ。



今回は前回に引き続き「善い人」という点から、
考えてみたいと思います。


○「箱」の役割を果たせない企業がブラック企業なら、
日本のほとんどの企業がブラック企業



現在は、「強いつながり」から「弱いつながり」への、
移行の過渡期だと、佐々木氏は指摘します。

ところが、強いつながり社会から弱いつながり社会に
日本が移っていく中で、
移行期に特有の現象も起きちゃってる。


個人的には、移行期というよりは、
強いつながり社会が脆弱になっている、
というとらえ方が自然だとは思います。

ただ、そうしたなかで、
様々な現象が起こっているのは、
間違いありません。

佐々木が例として指摘するのは、
次の2点。

(1)ブラック企業
(2)「箱」の外を過剰に排除する


個人的には、
実はあまり「ブラック企業」という言葉は、
好きではありません。

あまりにも、定義があいまいだから。
どうも、ブラック企業というのは、

・社員を不当にこき使う上に、
・「箱」として社員を守ってくれない

そんな企業のこと、という認識なのかな、
そんなことを思います。

その認識でいけば、
ほとんどの企業がブラック企業ですね。

必死に働いても、
ブラック企業は「箱」じゃありませんから、
社員を守ってくれるわけじゃありません。
生存戦略にならない。


余談ですが、個人的には、
たぶん多くの人の認識がばらばらな、
そんなブラック企業について、
各人がどう捉えているかを明確にするには、

 「あなたにとってホワイト企業って何ですか?」

を確認するのがよいのかな、と思っています。
それも、浮ついた言葉を使わずに、
なるべく具体的に。

「社員を大切にするのがホワイト企業です」
「ワークライフバランスを
大切にするのがホワイト企業です」

なんて回答では、
何も語ってないに等しいので。

まぁ、個人的には、
ブラック企業が減少し、
ホワイト企業が増えるためには、

企業が、極力「箱」として機能しなくてもすむ、
そんな社会システムを作ることが、
大切なことの一つなのではないかと思うのです(※)

ただ、その過渡期においては、
行き過ぎた個別のブラック企業を訴える、

「ならず者を訴える」作業は、
必要なのでしょうがね。

※あと、「人は余っているけど資源は有限」
「だからこそ、人が長労働時間する必要がある」

という、労働時間至上主義からの脱却が、
かなり大事だと思っています。

現在、人手不足が話題になっていますが、
こうした現象が、従来の労働意識の改革を促す、
パラダイムシフトのきっかけになるのかな、
そんなことを考えたりします。


○人間は「箱」の外側には苛烈で残酷
そこを認めた上で、寛容になる



ブラック企業問題にしろ、
「箱」のあり方を変えないと、
本当はいけないのでしょうが、

「箱」が不安定になっているときに起こりがちなのが、
「箱」の外を過剰に排除する動き。

やさしい顔を見せるのは「箱」の内側に対してだけで、
外側に対しては厳しい顔。


結局のところ、わたしら日本人は見知らぬ他人に対しては
とても残酷だってことなんですよ。

わたしたち日本人は、実はけっこう苛烈で残酷である。
それをまず認めようじゃないですか。

それを知るところに、
スタート地点はあるんじゃないでしょうか。


佐々木氏は「日本人は」と言っていますが、
個人的には、「人間は」と言ってもいいと思っています。

「箱」のとらえ方が、
人種、民族、宗教等で違うだけ。

ま、隣国に対しては、
苛烈で残酷になりやすいのは、
どこの国でもわりと共通ですね。

ネトウヨなんて、どこの国にも一定数で存在してるし、
世界はヘイトスピーチであふれてる。

グローバリズムが「箱」をゆさぶっているのは、
日本だけの話でもないですしね。

鎖国して、「箱」を守ることが、
平和につながる、ということ。

それは、日本が江戸300年間を通して示してきた、
一つのあり方なのだろうとは思います。

ただ、何度も繰り返しますが、
もう、それで「箱」を守ることは、
非常に難しい。

個人的には、そのやり方で「箱」を守り、
平和を作る方法は、
日本人全体が相当貧しくなる覚悟の上に、
安全保障とかでいろいろな奇跡が起きる、
そんな必要があると思います。

そんな覚悟も、
その手の奇跡を信じる心もない私は、
「箱」のあり方を変えるしかないと、
思っています。

佐々木氏は、その変え方として、

「寛容になること」を説きます。

生存戦略として正しいのは、
見知らぬ他人に対しても寛容になること。
もっと広く言えば「善い人」になることです。


ま、突き詰めれば、
寛容にならない限りは、
 血で血を洗う戦いになるしかない。

それは、いいかげん、
やめたいところですね。


○「消極的な善い人」と「積極的な善い人」の
バランスをどうとるのか?



で、佐々木氏のいう「善い人」って、
結局、どんな人なのか?

佐々木氏は、「善い人」には、
2種類のタイプがあると指摘します。

善い人にもわたしは
「消極的な善い人」と「積極的な善い人」の
両面があるんじゃないかと思っています。


「消極的な善い人」ってのは、
一言で言えば、寛容な人です。

消極的な善い人というのは、
他人のやることを認めてあげる人。

他人の世界観や考えていること、やっていることが
自分と違っているからといって攻撃しない人。

他人の失敗や失言を認め、
他人を責めない人。

上から目線で、見下ろさない人。


で、「積極的な善い人」ってのは、
一言で言えば、与える人です。

自分の能力を、
人のためにも使う人ですね。

ボランティアとか、NPOとか、
社会起業家なども、その手に部類に入るでしょう。
ただ、個人的には、

「消極的な善い人」と「積極的な善い人」って、
 両立がかなり難しいのではないかと思っています。

「消極的な善い人」になる、一番手っ取り早い方法は、
 他人に無関心になること。

他人が何を言ってても、別にどうでもいい。
人は人、自分は自分。

ただ、「積極的な善い人」にとって、
 自分の善事を根本的に否定する他人を、
 容認することはできない。

その手の積極的な善い人が、
基本的にヘイトスピーチしてる人を、
認めることはできない。

「積極的な善い人」の与える気持ちが強ければ強いほど、
それに害をなす人に寛容にはなれない。

それでも寛容になろうとすれば、
ある種の「赦し」の世界になりますねぇ。

ヘイトスピーチのごとく、
ある程度明確な他者危害則侵犯があれば、
それに寛容になる必要もないのかもしれません。

ただ、じゃあ、レイシストしばき隊なる、
反ヘイトスピーチ集団が「積極的な善い人」かといえば、
それはそれで難しい。


ま、その点を突き詰めすぎると、
逆に価値相対主義のワナに陥って、
何もできなくなるので、

そのへんは、バランス感覚ですね。
難しいところですが。

次回は、バランス感覚を考える上でも大切な、
「自分の中途半端な立ち位置を知る」
という観点をみていきます。



※この記事は、P-SONICのHP記事より転載しております。
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2014年12月24日

「強いつながり」外の善行が生存戦略になる時代が来る



佐々木俊尚氏の『自分でつくるセーフティネット』をベースに、
「みんなが社会起業家」を考え直すシリーズ。




今回は「善い人」という点から、
考えてみたいと思います。


○「善い人を目指す=生存戦略」なんてウソでは?


佐々木氏は言います。

他人に寛容になり、他人に与える、
そういう善い人を目指すことが、
いまや道徳でも宗教でもなく、
わたしたちの生存戦略になっているんです。


さて、皆さんは、どう思われますか?
ま、深く考えずに読めば、

「いいこと言ってるね」
くらいの感覚だと思います。

でも、「善い人を目指す=生存戦略」ってのは、
ちょっと考えると、心にひっかかるものがないですか?
これまでの感覚だと。

なぜ、ひっかかるかといえば……

(1)善い人=陰徳を行う人
(2)ボランティアしてて、なんか処世術になる?

(1)でいえば、

いい人は、普通は、

「オレはいいことしてるぞ〜!」とは、
いちいち言いふらさない、ということになっており、
その手の人は、偽善者とみなされる世の中です。

ま、陰徳善事ってやつですよ。

ただ、(2)との関連で言えば、
実はこれまでは、あくまで会社の中とかであれば、
陰徳善事はある種の処世術になる。

「見てくれている人は見ている」ってやつ。

でも、一歩会社の外に出てボランティアをすると、
いったい、誰が「見てくれている人」なのか?
そして、「見てくれている人」がいたとして、
何か自分にいいことがあるの?


○これまでは「強いつながり」外の善行は無意味


もちろん、佐々木氏は、
この点も理解した上で、持論を進めています。

昭和のころはもうひとつ、
せっかく善い人になって善行を積んでも、
現世利益がないよねえということがありました。

「人知れず善行をして、亡くなってからそれがわかる」

なんていうお話を、なぜかみんな好きだった。


…そうなんですよねぇ。

近江商人的な陰徳善事も、
「家永続の願い」からなされるものであり、
狭い意味で言えば、現世利益ではない。

「日本人は無宗教だ」なんて言いますけど、
信じてないのは特定宗教の教義(belief)であって、

言葉にできない感覚というか、
素朴な宗教的実践(practice)については、
はっきりいって、ものすごく信じてる。

陰徳善事も、その一つといえるでしょう。

「善行を積んでも、
うまく立ち回って生きていくための
処世術にはならない」

というあきらめも
あるように思うんですよ。


これは言い方を変えれば、
わざわざ「箱」の外の世界の人たちに
善意を提供する必要もあまりなかった、
ともいえると思うんですよね。

だって、
「見てくれる人は見てる」っていうのは、
農村とか会社とか、
強いつながりの中だからこそ言えるわけで、

外に一歩出ちゃうと、
どんなに善行を積んでも、誰も見てくれない。


…「強いつながり」共同体への善行は、
処世術になるけど、

「社会のため」への善行は、
処世術とは関係ない。
よくて、死んでから賞賛されるだけ。

言い換えれば、

「社会のため」への善行のためには、
 世の中、「強いつながり」共同体との関わりを、
 断ち切る必要があったともいえる。

その点では、宗教と善行とは、
親和性が高い。

だからどこの誰とも分からないような
見知らぬ他人のために役立つよりは、
同じ村や会社の仲間のために役立つほうが、
生きていくための戦略としてはずっと正しかった。

そりゃね、「村や会社のために役立つ」と
「広く社会のために役立つ」が両立するんなら、
それは素晴らしい。

でも実際には、たいていの場合
そのふたつは両立しないんです。


…この指摘は重要ですよね。
ここから、個人的に読み取れそうなことは、

・そりゃ、就活で「社会のために働きたい」とか言ったら、
 落とされるよね。
 普通に、会社のために働けよ。

・だからこそ、CSRとかCSVってのは、
 難しいんですよね。
 たいていの場合、会社の利益と社会の利益は両立しないから。

・そう考えると、コミュニティビジネスとソーシャルビジネスは、
 根本的なところでは両立しないのかも。


○「強いつながり」から「弱いつながり」への
過渡期に起こることとは



しかし、何度も書いているように、
「強いつながり」は崩壊の一途をたどっています。

だからこそ、「弱いつながり」という話が、
出てくるのですが。

会社とか村みたいな「箱」は
いま頼りにならなくなってきちゃってる。

黙々と仕事をしているだけだと、
誰にも認められないまま
リストラされちゃうかもしれないし、
会社が潰れちゃうかもしれない。

「会社のために黙々と仕事をする」よりも、
「広い社会のために善いことをする」というほうが、
正しい生存戦略である、ということです。



問題なのは、現在は、
 「強いつながり」から「弱いつながり」への、
 移行の過渡期だという点。

こうした過渡期には、
過渡期なりの様々な問題が起こってくる。

それが、たとえばブラック企業問題であり、
ネトウヨ的なヘイトスピーチではないかというのが、
佐々木氏の見立てです。

次回は、その点について、
触れていきたいと思います。



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