今回からしばらく、「世界を変える」というとき、「世界=自分の見えている範囲」であり、この前提に立つときに派生する様々な問題について、考えていくことにします。
その問題は、以下の4つであると指摘していました。
(1)半径5メートルの世界観
(2)「俯瞰を断つ直視の眼」パラドックス
(3)タコツボな世界観
(4)タコツボ同士の「すりあわせ」は可能か?
今回は、前回に引き続き、
「『俯瞰を断つ直視の眼』パラドックス」、および
「マイノリティ憑依」について、考えてみたいと思います。
○「俯瞰を断つ直死の魔眼」は無敵なのです「マイノリティ憑依」の何が怖いかといえば、
「マイノリティ憑依」に「俯瞰を断つ直視」が重なると、ちょっと全体的な視点(俯瞰視点)で何かを語っただけで、一方的に断罪されてしまう、ということです。高台の問題とか、顕著なのは原発問題とか。
前回、
"「俯瞰を断つ直視の眼」のポイントは、同じ視点に立ってほしいという願い。"
と書きましたが、
「マイノリティ憑依」状態になると、これが「自分だけは神の視座に立っている」状態に変わります。こうなると、ただただ一方的に、俯瞰視点に立った人間は
断罪される。
というより、断罪するのが「正義」。
断罪、というと、いいことのように思うかもしれませんが、
要は相手を「殺す」「死に至らしめる」ということです。しかも、相手を死に至らしめる方法は簡単。その過程においては論争っぽいこともあるかもしれませんが、最後は「弱者の気持ち」を持ち出せばOK。
これで、相手を人格的に抹殺できます。
応用としては、論争のやり方自体にクレームをつけるのもアリ。
どんなに論争で不利になっても、「その論争の仕方、話法は、弱者の気持ちに立脚してない」といえば、ある種の手続き論としては、論争を無効化できます。このように
「自分はマイノリティの側に立っている」というのは、ある意味で錦の御旗なわけで、「道義的」な立場に立つ限り、絶対に負けることはない。ここまでくると、「俯瞰を断つ直視の眼」というより、
「俯瞰を断つ直死の魔眼」ですな。
○「『俯瞰を断つ直視の眼』パラドックス」の3つの側面今までの流れを整理しましょう。
「『俯瞰を断つ直視の眼』パラドックス」には、3つの側面があります。
1.非営利組織の経営者が陥りやすい、「広い視野」と「現場の視点」とのバランス感覚これは、ドラッカーも指摘した側面です。
NPOに携わる人間は、どうしても現場の視点に引っ張られがちですが。
2.社会課題を抱える当事者の気持ちに寄り添うのと、社会課題を根本から解決する、この2つの立場感の相克「寄り添い」と「解決」の立場の視野を、どれだけ同じ方向に向けるかが問われます。
3.「マイノリティ憑依」による、一切の異なる視点の断罪「『俯瞰を断つ直視の眼』パラドックス」の3つの側面といってますが、実は、3の側面はパラドックスではありません。
厳密に言えば、マイノリティ憑依すればするほど、本当の社会課題を抱える当事者は置き去りにされる、というパラドックスを抱えてはいるのですが、「マイノリティ憑依」した断罪者にとっては、別にそんなことは、どうだっていいわけです。
こうした断罪者が唱える「世界を変える」は、自分が世界と見なしていない存在を、断罪することに他なりません。断罪の最たるものは、文字通りの大量虐殺で、これも世界各地で起こっています。しかし、別に物理的に生命を絶たなくても、断罪行為によって生み出された結果が、別の悲劇をもたらすことだって、容易にあるわけです。
今後、私たちは、その「別の悲劇」を、目の当たりにしていくことになるのでしょう。
ただ、幸か不幸か、往々にして、「断罪行為によって生み出された結果」と「別の悲劇」の間に、それなりのタイムラグがあるため、「別の悲劇」の原因が、「断罪行為によって生み出された結果」だと、気づかないで過ごすことができるはずです。(双方の因果関係が多くの人に明らかになるのは、大体歴史が経ってから)
こうした歴史の積み重ねから、あの「地獄への道は善意で舗装されている」が生み出されたのでしょう。3つの側面の1、2は、社会課題の解決に取り組むものにとっては、いわば「生みの苦しみ」といった、避けては通れないものですが、
3の側面だけは、可能な限り避けるべき側面です。それでも、たいていの場合、「マイノリティ憑依」の罠に陥ってしまうのですが。ジェダイの騎士が、気をつけてないとダークサイド(暗黒面)に堕ちてしまうような、そんなものかもしれませんね。
○NPOや社会起業家が「マイノリティ憑依」の罠に陥らないためには?実は、『「当事者」の時代』には、「マイノリティ憑依」を超えて、当事者の時代をどう生きるか、ということについては、明確に触れられていません。
というより、
「みんなが当事者性をもって生きよう!」という安易な結論は、負け戦必死と諌めています。この点で、『「当事者」の時代』という本は、「どうやったらこれからの時代をうまく生きられるか」といった安易なハウツー本や自己啓発本とは程遠く、
むしろ当事者性とは何か、ということは形だけの紹介にとどめて(形式的指標)、あとは各自で、当事者の時代に向けて自己変容してください、といった、ある種の哲学書のような本だといえます。著者の佐々木氏によると、『「当事者」の時代』はあまり売れていないようですが、自己変容を求める哲学書、と考えると、それもやむなし、かもしれませんね。
とはいえ、「あとは、自分のアタマで考えよう!」だと、それはそれで不親切な気もするので、参考までに、フローレンスの駒崎氏が、この問題に対してどのような答えを出したかについて、紹介したいと思います。
"書評「当事者の時代」:ポスト311必読の書"
http://komazaki.seesaa.net/article/266240108.html前半の内容も面白いです。
「マイノリティ憑依は、実は我々NPO業界にこそ、蔓延しているもの」と指摘し、実例を紹介しています。
"「子ども」という弱者の立場に立つように見え、
しかし現実はそれを自らのイデオロギー(及び利権)を
無意識に正当化するツールとしてフル活用している。"これは、保育業界のお話であり、「マイノリティ憑依と既得権がどう結びつくか」の格好の事例といえます。
「自分たちは、社会的弱者のために活動している」というマイノリティ憑依を錦の御旗にすることは、既得権維持の観点からすれば、王道の戦略でしょう。
(
しかも、こうした人たちのほとんどは、その錦の御旗を、純粋に心の底から信奉している「いい人」なのです)
しかし、これを、今後NPO業界、社会起業家が成長していったときに、それがどのようなプロセスで既得権化し、どのようにしてそれを正当化していくか、というプロセスと考えると、この事例は「未来からの警告」とも、受け取ることができそうです。
では、どうやって「マイノリティ憑依」の罠に陥らないようにするか?駒崎氏が出した結論は、次の3点
1.「行政批判」ではなく「新サービス創造」
2.「抽象論」から「具体的対案」
3.「糾弾」から「対話による相互啓発」1は、
“安易な行政批判(そしてそれは非常に気持ちいい)を慎み、「だったら自分達でやってみようぜ」というスタンス。これはソーシャルビジネスに通じる。”一言で言えば「だったら、お前がやれ!」ということでしょう。
2は、
“「これだから日本の政治はダメなんだ・・・」的な抽象的批判を脱し、「この法案の5条にこの文言を入れ込むともっと良い」というような具体的対案”前に、ハシズム批判が盛り上がったときに、「ソリューションなき批判は単なる戯言」とつぶやいたことがありますが、いいたかったのはこういうことです。
3は、
“マイノリティを勝手に代弁して誰かを攻撃するのではなく、先入観を排した対話を通じ、いわゆる「弱者」の視点をインストールしてもらえるよう、促しながら、その対話の中で自らも学んでいく、という姿勢。”“しかし手間も時間もかかるこうした対話には、
ITという補助ツールが欠かせない。
ソーシャルメディアを介した新たな「対話」手法を
開発していくことだろう”重要なポイントですね。
補足すれば、
・先入観を排した対話:→データ中心の対話
・「弱者」の視点をインストールしてもらえるよう促す:→弱者の事例を描いていく(ただし事実の紹介にとどめる)
・対話の中で自らも学んでいく:→相手の言い分にも心を開く「積極的傾聴」あと、
対話のITツールといえば、ツイッターは決定的に不向きですね。140文字しかないから、どうしても断定的になりやすいし、
匿名だから、「マイノリティ憑依」の断罪者たちにとっては圧倒的に有利。現時点では「コメント、意見はFacebook限定」くらいのほうが、意義のある対話の手法としてはいいのかもしれませんね。
せっかく対話の話が出ましたので、次回は、マイノリティ憑依に限らず、断罪者たちがやりがちな、生産的でない対話の手法について紹介します。
NPOや社会起業家たちが、この手法を安易に使うことなく、生産的な対話を通して、より意義のある社会課題解決ができることを願って。
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