「ひろしま社会起業支援サミット2010」
を開催しました!

・日時:2010年6月27日(日)
・場所:広島経済大学 立町キャンパス
 (市電「立町」からすぐ)

・参加費:無料

 当日の様子等がわかる「事業報告書」はこちらから!
hiroshimasocialsummit2010_report.pdf

2012年05月16日

<社会起業とは>その​「正義感」があぶない​!?

今回からしばらく、

「世界を変える」というとき、「世界=自分の見えている範囲」であり、この前提に立つときに派生する様々な問題について、考えていくことにします。

その問題は、以下の4つであると指摘していました。

(1)半径5メートルの世界観
(2)「俯瞰を断つ直視の眼」パラドックス
(3)タコツボな世界観
(4)タコツボ同士の「すりあわせ」は可能か?

今回は、数回にわたった、「俯瞰を断つ直視の眼」パラドックスについての考察の最後として、「正義感」の話をしようかと思います。

正義感というのは、辞書的には、「不正を憎み、正義を尊ぶ気持ち」なのだそうですが、
http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/121253/m0u/

個人的には、正義感の強い人が、以下のケースに当てはまる場合、それは、一歩間違えば、非常に怖いことになるのではないか、などと思っています。

A.「半径5メートルの世界観」に無自覚
B.「俯瞰を断つ直視の眼」パラドックスに無自覚

Aは、ソフトな言い方をすれば「頭が固い」
Bは、「視野が狭い」といいかえていいでしょう。


私は、これまで幾人かののNPO関係者と接してきましたが、ほとんどの方が、強い正義感を持って行動していました。

だからこそ、そうした人たちは、人一倍「マイノリティ憑依」の罠に陥りやすいともいえます。

○正義感と正義の違い

まぁ、「正義とは何か」なんていうと、サンデル先生にでもおまかせしたいテーマですが、個人的には、正義というのは、公正を実現するためのあり方だと思っています。

公正を実現するには、いかに恣意的、人情的な判断を避けるかが問われ、ある意味では「冷たい」側面もあります。

なので、正義を追及する人は、基本的に「冷たい」人でないといけないと、個人的には思っています。

それに対し、正義感は、人情的な側面も持ち合わせているような気がします。

正義感の強い人、という時に、杓子定規な冷たい人をさす場合もあれば、人情家で激情家をさす場合もあります。

「マイノリティ憑依」は、この人情的な側面が、いびつな形で変化したものだといえます。

個人的には、正義感の強い人には、『当事者の時代』ってウケないだろうなと、感じる次第です。
というより、何書いてるかわからないし、感情的な反発が大きいのではないかと。
『当事者の時代』って、ある意味、「あなたの正義感は、きちんと内省しないとアブナイですよ」と忠告してるともいえるわけで。

○最後に

NPOや社会起業家にとって、正義感は今までも活動の原動力となってきたし、これからも、おそらくはそうなのでしょう。

(ただ、今後は「儲けたいから」が原動力の人も、増えてくるのでしょう。
 個人的には、それはそれで面白いと思っています。)

しかし、正義感が活動の原動力であるということは、一面では危険な側面もあることを自覚し、フローレンスの駒崎氏のように、自分の正義感を危険な方向にもっていかないためのルールを、それぞれで構築する必要が、今後は一層求められると思われます。

いいかえれば、自分の「半径5メートルの世界観」をいかに広げ、俯瞰視点と社会課題の現場視点との整合性をいかにとりつつ、「マイノリティ憑依」といったある種の独善をいかに克服していくか。
今後は、それが問われてくることになるのでしょう。


「これからの『正義』の話」は、サンデル先生がしてくれるのではなく、各人各人が作り上げていく必要がある、ということでしょうか。

まぁ、サンデル先生も、前から問題を投げかけるだけで、あとは各人にまかせていたわけですが。

twitterへRTするこの記事についてtwitterでつぶやく | @psonic_moriをフォローする@psonic_moriをフォローする
posted by ccc_summit_hiroshima at 23:20| Comment(0) | 社会起業トピック | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年05月12日

<社会起業とは>生産的でない対話手法と、その背景(バイアス)

今回からしばらく、世界を変える」というとき、「世界=自分の見えている範囲」であり、この前提に立つときに派生する様々な問題について、考えていくことにします。

その問題は、以下の4つであると指摘していました。

(1)半径5メートルの世界観
(2)「俯瞰を断つ直視の眼」パラドックス
(3)タコツボな世界観
(4)タコツボ同士の「すりあわせ」は可能か?

今回は、「マイノリティ憑依」に陥った断罪者たちがやりがちな、生産的でない対話の手法について紹介します。

これから紹介するのは、いわば交渉のテクニックでもあります。
老練な交渉者、ビジネスパーソンたちは、これから紹介する手法を、意識して使って、交渉を自分にとって有利なように導きます。
一方、「マイノリティ憑依」に陥った断罪者たちは、多くの場合、これから紹介する手法を無意識のうちに使っています。

以下、断罪者たちが無意識のうちに使いがちな手法、およびその背景を紹介します。
手法はすべて、グロービズの「カイゼン!思考力」に拠って紹介します。

(1)論点のすりかえ http://www.globis.jp/1530
(2)同意されている前提への反論 http://www.globis.jp/1542
(3)ストローマン http://www.globis.jp/1588
(4)充填された語 http://www.globis.jp/1687

(5)べき論への執着 http://www.globis.jp/1931
(6)連座の誤謬 http://www.globis.jp/1498
(7)過去美化バイアス http://www.globis.jp/1720
(8)現状維持バイアス http://www.globis.jp/1639

(9)自己奉仕バイアス http://www.globis.jp/1583

(1)〜(4)が、無意識のうちに使いがちな手法で、
(5)〜(8)が、建設的な対話をゆがめる背景(バイアス)といえます。

(9)は、おまけで紹介します(重要なバイアスなので)


○ついついやってしまいがちな「論点のすり替え」「同意されている前提への反論」

論点のすり替え」は、個別の発言そのものは筋が通っていても、そもそもの論点にそぐわない意見になってしまっているというもの。
http://www.globis.jp/1530

リンク先の記事では、類似の事例として、「そういうお前はどうなんだ」を紹介しています。
確かに、これは論点がすりかわってますよね。

「未来のエネルギーの主役は太陽光だ」といってる人に、「じゃあ、お前の家は太陽光設置してるのか」と切り返してみたり、
「原発というオプションを捨てるべきでない」といってる人に、「じゃあ、お前の町に原発建ってもいいのか」と切り返してみたり…

現在の断罪トピックの最先端はエネルギー問題ですので、エネルギー問題についての論争は、この手の事例が豊富です。

同意されている前提への反論」は、相手が特段反対していない前提に対して、その前提が暗黙的であり明示的に示されてはいないために、それが主張の重要な根拠だと思い込んで、そこに反論したりすることです。
http://www.globis.jp/1542

「論点のすり替え」と内容的に似ていて重なり感のある落とし穴であり、どちらも往々にして議論がかみ合わない、という状況をもたらします。

「同意されている前提への反論」の例として分かりやすいのは、リンク先記事にもある、
「働きたいのに働けない人が多いのは問題だ」という発言に対して、「働きたくない人もいるからな」と答えるようなケースでしょう。

○まさに断罪者のための「ストローマン」「充填された語」


「ストローマン」は、相手の意見を正しく引用せず、捻じ曲げて引用し、それに反論するという論法です。
http://www.globis.jp/1588

しばしば、「とんでもないことを言い出すやつだ」といったように、相手を強く攻撃する際に用いられます。
相手が問題にもしていない論点をでっち上げ、それに対して攻撃しているのです。

「実は、原発は停止してても危険」という意見に対して、「じゃあ、お前は原発を全部動かして、今後も原発を増やせと言いたいのか!この安全厨が!」

とかね。

充填された語」は、用語の選択の段階で、ネガティブもしくはポジティブな印象を与える言葉を選び、主張そのものとは別の次元で聞き手の印象を操作しようというものです。
http://www.globis.jp/1687
一種のレッテル張り、レトリック(修辞法)の一種ですな。

「レトリックは、それを取り除くと論理構造がむき出しになってしまいます。
そのため、しばしば、自分のむき出しの論理構造の貧困さを補うため、
あるいは、議論において論理で負けそうな人が、相手を攻撃する場合などに、充填された語が用いられることがあります。」


断罪者が、とにかく相手をけなしたいときは、こうした手法を無意識に(あるいは意識的に)用いることがあります。

「現代のヒットラー」とか「民主党の犬」とか、この手の言葉が出てきたら、この手の言葉を差し引いた上で、再度議論のロジックのみに注目することをおススメします。

○建設的な対話をゆがめるバイアス

べき論への執着」は、「○○たるものかくあるべき」という考え方にとらわれ過ぎて、新しい発想が出来ない状況です。
http://www.globis.jp/1931

「社会貢献は無償の奉仕であるべき」「企業は株主の利益を最大化するためのもの」とかね。

社会貢献や企業に対してこうした「べき論への執着」があると、今後のCSRの潮流を受け入れられなくなります。

連座の誤謬」は、仮にある主張が正しかったとしても、その主張を支持する人間の中にいつもは悪い言動をしている人間がいると、
「彼/彼女も正しいと言うことなんて信じられない。間違っているに違いない」
といったように、発言の成否を、内容の正しさではなく、発言した人間の人格で判断してしまうという落とし穴です。
内容と人格とを混同して正しい判断ができない状況と言えるでしょう。
http://www.globis.jp/1498

今で言えば、組織で言えば東電でしょうか。

逆を言えば、いつもいいことしてる人が、今回も正しいとは限らないわけですが。

過去美化バイアス」は、過去のことを、当時感じていたよりも美化して思い出すことです。
http://www.globis.jp/1720

「三丁目の夕日」とか、その典型ですよね。
あのころは、「未来はよくなる」という希望はあったのかもしれませんが、それ以外は、はるかに現在よりも劣悪であったはず。

極論を言えば、「昔は、電気なんかなくても、みんな幸せだった」とかね。
バイアスがかかったままで、この手の議論を実行に移すのは、大変危険です。


現状維持バイアス」は、よほど何とか変えなくてはならない、という強い動機がない場合に、「まあ、今のままでいいか」と考えてしまうバイアスです。
 http://www.globis.jp/1639

このバイアスは、何かを変えるというときに、強力な抵抗の根源になります。

社会起業家たちが、何らかの形で社会を変えようとするなら、まず間違いなく、この「現状維持バイアス」の壁にぶつかります。

「変革すると、自分にとって今より不利になる」というのは、既得権益による抵抗ですが、別に、今より不利になるわけでもないのに、それでも抵抗する人が多いのは、この「現状維持バイアス」です。

○「自分に厳しく」は、自己奉仕バイアスの逆を行くこと

自己奉仕バイアスは、自分がやって成功したことの要因は自分に帰属し、失敗した時の原因は外部に帰属すると考える人間の性向を指します。
 http://www.globis.jp/1583

これは、リンク先でも引用されている有名な詩を、ここでも引用することで足りるでしょう。

「人が時間をかけるのは、要領が悪いから
 自分が時間をかけるのは、丹念にやっているから

 人がやらないのは、怠慢だから
 自分がやらないのは、忙しいから

 言われていないことを人がやるのは、でしゃばりだから
 言われていないことを自分がやるのは、積極的だから

 人がルールを守らないのは、恥知らずだから
 自分がルールを守らないのは、個性的だから

 人が上司に受けがいいのは、おべっか使いだから
 自分が上司に受けがいいのは、協力的だから

 人が出世したのは、運がよかったから
 自分が出世したのは、頑張ったから」


『「人を動かす人」になるために知っておくべきこと』(ジョン・C・マクスウェル著、三笠書房)より引用

この点で言えば、自分に厳しい人は、

「自分がやって成功したことの要因は外部に帰属し、失敗した時の原因は自分に帰属すると考える」ということだといえます。

○最後に

興味のある方は、上記以外の「カイゼン!思考力」コーナーもご覧ください(それぞれの文章の末尾にバックナンバーが紹介されています)。

NPOや社会起業家たちが、この手法を安易に使うことなく、また、各種バイアスに流されることなく、生産的な対話を通して、より意義のある社会課題解決ができることを願います。

twitterへRTするこの記事についてtwitterでつぶやく | @psonic_moriをフォローする@psonic_moriをフォローする
posted by ccc_summit_hiroshima at 14:48| Comment(0) | 社会起業トピック | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年05月03日

<社会起業とは>NPOや社会起業家が「マイノリティ憑依」の罠に陥らないためには?

今回からしばらく、「世界を変える」というとき、「世界=自分の見えている範囲」であり、この前提に立つときに派生する様々な問題について、考えていくことにします。

その問題は、以下の4つであると指摘していました。

(1)半径5メートルの世界観
(2)「俯瞰を断つ直視の眼」パラドックス
(3)タコツボな世界観
(4)タコツボ同士の「すりあわせ」は可能か?

今回は、前回に引き続き、「『俯瞰を断つ直視の眼』パラドックス」、および「マイノリティ憑依」について、考えてみたいと思います。

○「俯瞰を断つ直死の魔眼」は無敵なのです

「マイノリティ憑依」の何が怖いかといえば、「マイノリティ憑依」に「俯瞰を断つ直視」が重なると、ちょっと全体的な視点(俯瞰視点)で何かを語っただけで、一方的に断罪されてしまう、ということです。

高台の問題とか、顕著なのは原発問題とか。

前回、

"「俯瞰を断つ直視の眼」のポイントは、同じ視点に立ってほしいという願い。"

と書きましたが、「マイノリティ憑依」状態になると、これが「自分だけは神の視座に立っている」状態に変わります。

こうなると、ただただ一方的に、俯瞰視点に立った人間は断罪される。
というより、断罪するのが「正義」。

断罪、というと、いいことのように思うかもしれませんが、要は相手を「殺す」「死に至らしめる」ということです。

しかも、相手を死に至らしめる方法は簡単。その過程においては論争っぽいこともあるかもしれませんが、最後は「弱者の気持ち」を持ち出せばOK。
これで、相手を人格的に抹殺できます。

応用としては、論争のやり方自体にクレームをつけるのもアリ。
どんなに論争で不利になっても、「その論争の仕方、話法は、弱者の気持ちに立脚してない」といえば、ある種の手続き論としては、論争を無効化できます。

このように「自分はマイノリティの側に立っている」というのは、ある意味で錦の御旗なわけで、「道義的」な立場に立つ限り、絶対に負けることはない。

ここまでくると、「俯瞰を断つ直視の眼」というより、「俯瞰を断つ直死の魔眼」ですな。

○「『俯瞰を断つ直視の眼』パラドックス」の3つの側面

今までの流れを整理しましょう。

「『俯瞰を断つ直視の眼』パラドックス」には、3つの側面があります。

1.非営利組織の経営者が陥りやすい、「広い視野」と「現場の視点」とのバランス感覚

これは、ドラッカーも指摘した側面です。
NPOに携わる人間は、どうしても現場の視点に引っ張られがちですが。

2.社会課題を抱える当事者の気持ちに寄り添うのと、社会課題を根本から解決する、この2つの立場感の相克

「寄り添い」と「解決」の立場の視野を、どれだけ同じ方向に向けるかが問われます。

3.「マイノリティ憑依」による、一切の異なる視点の断罪

「『俯瞰を断つ直視の眼』パラドックス」の3つの側面といってますが、実は、3の側面はパラドックスではありません。

厳密に言えば、マイノリティ憑依すればするほど、本当の社会課題を抱える当事者は置き去りにされる、というパラドックスを抱えてはいるのですが、「マイノリティ憑依」した断罪者にとっては、別にそんなことは、どうだっていいわけです。

こうした断罪者が唱える「世界を変える」は、自分が世界と見なしていない存在を、断罪することに他なりません。

断罪の最たるものは、文字通りの大量虐殺で、これも世界各地で起こっています。

しかし、別に物理的に生命を絶たなくても、断罪行為によって生み出された結果が、別の悲劇をもたらすことだって、容易にあるわけです。

今後、私たちは、その「別の悲劇」を、目の当たりにしていくことになるのでしょう。

ただ、幸か不幸か、往々にして、「断罪行為によって生み出された結果」と「別の悲劇」の間に、それなりのタイムラグがあるため、「別の悲劇」の原因が、「断罪行為によって生み出された結果」だと、気づかないで過ごすことができるはずです。
(双方の因果関係が多くの人に明らかになるのは、大体歴史が経ってから)

こうした歴史の積み重ねから、あの「地獄への道は善意で舗装されている」が生み出されたのでしょう。

3つの側面の1、2は、社会課題の解決に取り組むものにとっては、いわば「生みの苦しみ」といった、避けては通れないものですが、3の側面だけは、可能な限り避けるべき側面です。

それでも、たいていの場合、「マイノリティ憑依」の罠に陥ってしまうのですが。

ジェダイの騎士が、気をつけてないとダークサイド(暗黒面)に堕ちてしまうような、そんなものかもしれませんね。


○NPOや社会起業家が「マイノリティ憑依」の罠に陥らないためには?

実は、『「当事者」の時代』には、「マイノリティ憑依」を超えて、当事者の時代をどう生きるか、ということについては、明確に触れられていません。

というより、「みんなが当事者性をもって生きよう!」という安易な結論は、負け戦必死と諌めています。

この点で、『「当事者」の時代』という本は、「どうやったらこれからの時代をうまく生きられるか」といった安易なハウツー本や自己啓発本とは程遠く、むしろ当事者性とは何か、ということは形だけの紹介にとどめて(形式的指標)、あとは各自で、当事者の時代に向けて自己変容してください、といった、ある種の哲学書のような本だといえます。

著者の佐々木氏によると、『「当事者」の時代』はあまり売れていないようですが、自己変容を求める哲学書、と考えると、それもやむなし、かもしれませんね。

とはいえ、「あとは、自分のアタマで考えよう!」だと、それはそれで不親切な気もするので、参考までに、フローレンスの駒崎氏が、この問題に対してどのような答えを出したかについて、紹介したいと思います。

"書評「当事者の時代」:ポスト311必読の書"
http://komazaki.seesaa.net/article/266240108.html

前半の内容も面白いです。

「マイノリティ憑依は、実は我々NPO業界にこそ、蔓延しているもの」と指摘し、実例を紹介しています。

"「子ども」という弱者の立場に立つように見え、
 しかし現実はそれを自らのイデオロギー(及び利権)を
 無意識に正当化するツールとしてフル活用している。"


これは、保育業界のお話であり、「マイノリティ憑依と既得権がどう結びつくか」の格好の事例といえます。

「自分たちは、社会的弱者のために活動している」というマイノリティ憑依を錦の御旗にすることは、既得権維持の観点からすれば、王道の戦略でしょう。
しかも、こうした人たちのほとんどは、その錦の御旗を、純粋に心の底から信奉している「いい人」なのです

しかし、これを、今後NPO業界、社会起業家が成長していったときに、それがどのようなプロセスで既得権化し、どのようにしてそれを正当化していくか、というプロセスと考えると、この事例は「未来からの警告」とも、受け取ることができそうです。

では、どうやって「マイノリティ憑依」の罠に陥らないようにするか?
駒崎氏が出した結論は、次の3点

1.「行政批判」ではなく「新サービス創造」
2.「抽象論」から「具体的対案」
3.「糾弾」から「対話による相互啓発」


1は、

“安易な行政批判(そしてそれは非常に気持ちいい)を慎み、「だったら自分達でやってみようぜ」というスタンス。これはソーシャルビジネスに通じる。”


一言で言えば「だったら、お前がやれ!」ということでしょう。

2は、

“「これだから日本の政治はダメなんだ・・・」的な抽象的批判を脱し、「この法案の5条にこの文言を入れ込むともっと良い」というような具体的対案”


前に、ハシズム批判が盛り上がったときに、「ソリューションなき批判は単なる戯言」とつぶやいたことがありますが、いいたかったのはこういうことです。

3は、

“マイノリティを勝手に代弁して誰かを攻撃するのではなく、先入観を排した対話を通じ、いわゆる「弱者」の視点をインストールしてもらえるよう、促しながら、その対話の中で自らも学んでいく、という姿勢。”


“しかし手間も時間もかかるこうした対話には、
 ITという補助ツールが欠かせない。
 ソーシャルメディアを介した新たな「対話」手法を
 開発していくことだろう”


重要なポイントですね。
補足すれば、

・先入観を排した対話:→データ中心の対話

・「弱者」の視点をインストールしてもらえるよう促す:→弱者の事例を描いていく(ただし事実の紹介にとどめる)

・対話の中で自らも学んでいく:→相手の言い分にも心を開く「積極的傾聴」


あと、対話のITツールといえば、ツイッターは決定的に不向きですね。
140文字しかないから、どうしても断定的になりやすいし、匿名だから、「マイノリティ憑依」の断罪者たちにとっては圧倒的に有利。

現時点では「コメント、意見はFacebook限定」くらいのほうが、意義のある対話の手法としてはいいのかもしれませんね。

せっかく対話の話が出ましたので、次回は、マイノリティ憑依に限らず、断罪者たちがやりがちな、生産的でない対話の手法について紹介します。

NPOや社会起業家たちが、この手法を安易に使うことなく、生産的な対話を通して、より意義のある社会課題解決ができることを願って。
twitterへRTするこの記事についてtwitterでつぶやく | @psonic_moriをフォローする@psonic_moriをフォローする
posted by ccc_summit_hiroshima at 01:40| Comment(0) | 社会起業トピック | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする